18年以上にわたる 夢見法 の実践を通して、私にとって一つのシンプルな事実がはっきりしてきた。
「標準的な患者」というものは存在しない。存在するのは人である。
それぞれに異なる背景があり、痛みの捉え方も違い、そして治療に対する期待も大きく異なる。
辞書的には、患者とは医療的な治療を受ける病人を指す。
一方で、現代の医療分野では、病気であるかどうかに関わらず、ケアや施術を受けるすべての人が患者と考えられている。
実際、施術室に入ってくるのは「病人」だけではない。
解決策を求める人、バランスを整えたい人、予防のために来る人、あるいは単に答えを探している人が来る。
そのため、「患者」「利用者」「クライアント」という言葉はいずれも状況によって適切である。
患者は明確な問題を持って来る人、利用者は痛みがなくてもメンテナンスや予防のために来る人、クライアントは専門的なサービスを自ら選んでいるという関係性を示す。
夢見法 では、単に症状だけを見るのではなく、人全体を対象としている。
多くの人は痛みをきっかけに来院する。腰部、頸部、肩、膝、あるいは全身の緊張や硬さなどである。
多くの場合、「体が重い」「疲れている」「バランスが崩れている」といった感覚として表現される。
また、事故後や長期間の運動不足の後の回復を目的に来る人もいる。
予防やメンテナンスのため、あるいは他者からの紹介や興味から来る人もいる。
そして少なくないのが、「すぐに良くなること」を期待して来る人である。問題は早く消えるべきだという考えに影響されている。
時間が経つにつれて、いくつかの傾向が見えてくる。これはラベルではなく、理解のための手がかりである。
本当に良くなりたいと考え、回復がプロセスであることを理解している患者がいる。
情報を持っている患者もいる。正しい情報であれば助けになるが、誤った情報であれば混乱を招くこともある。
また、医療分野で働いている患者は、一般的に細部に注意を払い、比較をしやすい傾向がある。
過去に良くない経験をした人ほど、施術者を試すような態度をとることもある。
すべてを話さない患者や、忘れてしまう患者もいる。悪意があるわけではなく、何が重要か分からない、あるいは症状同士を結びつけていないだけである。
そのため、最初の問診の進め方は非常に重要になる。
また、満足できなかったり、忍耐が足りなかったり、あるいは単なる好奇心から、施術者を渡り歩く患者もいる。こうした人はすでに比較や期待を持っている。
よく見られるのは、すぐに治ることを求める患者である。最初から「何回で治るのか」と尋ね、結果がすぐに出なければ信頼を失う。
その反対に、受け身の患者もいる。施術には来るが、日常生活では何も変えず、すべてを施術者に任せようとする。
また、あらゆる感覚に敏感な不安の強い患者や、継続的に通い、プロセスを理解している信頼関係のある患者もいる。
特に特徴的なのが「自分で分かっている」と思っている患者である。
自分の状態を決めつけ、やってほしいことを指定し、特定の技術を求め、施術を単なる作業にしてしまう。
しかし、正確な評価なしに進めば、方向を誤る可能性がある。
このような場合、施術者の役割は指示通りに行うことではなく、評価し、見極め、導くことである。
施術者やプロセスを信頼する患者もいる。この信頼は重要だが、主体的な関わりとセットでなければならない。
一方で、施術や施術者を信じていない患者もいる。その多くは過去のうまくいかなかった経験に由来している。
家族や状況によって「連れてこられた」患者もいる。最初は消極的だが、徐々に関わりが深まることもある。
そして、あまり多くはないが、より捉えにくいタイプもいる。良くなりたいと言いながら、実際には全く関わらない患者である。
指示に従わず、何も変えず、同じ問題で戻ってくる。
場合によっては、「患者でいること」が周囲からの関心や配慮といった二次的な利益をもたらし、それが無意識のうちにこの状態を維持していることもある。
これは明言されるものではないが、確かに見られるパターンである。
ここでの本当の課題は、技術の選択ではなく、行動の理解にある。
長年の経験から分かるのは、来院するすべての人が同じものを求めているわけではないということだ。
ある人は解決を求め、ある人は確認を求め、ある人は体験を求め、そしてある人は無意識のうちに関心を求めている。
患者とは単なる痛みでも診断でもない。
それは、人生のある時点にいる一人の人間であり、それぞれの限界、不安、期待を抱えている存在である。
夢見法 において違いを生むのは、技術だけではない。
誰と向き合っているのかを理解する力である。
なぜなら、体の向こう側には、必ず物語があるからだ。
そして多くの場合、そのさらに奥にある物語が存在する。
そこから、本当の治療が始まる。