湧命法──手の向こうにあるのは魂

Yumeiho – Oltre le mani c’è l’anima
December 23, 2016
癒しの波 ― ユメイホ®と自然との調和
August 27, 2025

湧命法──手の向こうにあるのは魂

療法を実践していると、しばしばこう聞かれる。
始めたばかりの同僚や受講生、あるいは患者さんから──
「どうすれば、先生のように手を使ってできるようになりますか?」

この質問は、技術的な説明の場にもなる。それは確かに初心者には重要だ。
だが同時に、私にほんの短い沈黙を与え、湧命法(ゆめいほう)の実践における真の核心を思い出させる。

手の向こうにあるのは──魂である。

魂こそが「糸を操る見えない師」であり、
手に、身体・心・魂をひとつの単位として整え、
本来の均衡、健康、そして“源に近い”全体性へと戻す力を授ける。

湧命法のセラピストは、誰一人として同じではない。
それは“反復不可能性の独裁”とも言える真理だ。
初心者はまず、この事実を体の芯まで理解しなければならない。

師と同じになろうとしても意味がない。
真似をしても、形だけをなぞっても、
それは魂の抜けた動き──
笛の沈黙を知らない猿の、ぎこちない模倣にすぎない。

唯一の道はただひとつ。

自分自身に、ますます深くなっていくこと。

湧命法の「アルゴリズム的」部分──理論と技術──は、
単に習得し、反復し、実行する“公式”にすぎない。
優れたインストラクターなら、そこまでは必ず教える。

しかし、それは極めればロボットにさえできることだ。
湧命法の師は“訓練されたロボット”を育てるのではない。

彼らが育てるのは──

温かさ、人間性、共感、思いやり、
そして何より「魂」を放つ存在だ。

大半の湧命法の仕事は、画家の仕事に近い。
誰でも理論を学べるし、練習もできる。
だが、模倣からは決して名画は生まれない。

どれだけ完璧に描いても、レプリカのモナ・リザは
“悲しいコピー”にすぎない。

真の傑作とは──
現在を永遠に回帰させるような沈黙の終点にあり、
個人が源に向かうひとつの形態であり、
創造主だけが持つ完璧さと尽きない自発性を映す鏡なのだ。

この比喩が医学的には大げさかもしれない。
治療を“冷静な科学の勝利”とみなす人々には特にそうだろう。
しかし、この誇張は大切な役割を持つ。

湧命法の熟達は、賞賛を得るためではなく、
自分の内側にある“非常に個人的な源”を表現するためにある。

芸術家が“インスピレーション”によって動かされるように、
湧命法の療法家は“共感”によって動かされる。

それは、人を愛するという、
厄介でありながら揺るぎない人間の本質だ。

だが、この表現を本物にするには、
努力、鍛錬、継続、反復が不可欠である。

それらが土壌となり、
そこにまかれた魂の種は、
圧・確かさ・優しさ・繊細さ・謙虚さ・精密さへと芽吹き、
やがて手の“舞”が成熟した技へと育っていく。

そしてその同じ土壌が──
助けるという魂の選択を、
“癒しの書道(カリグラフィー)”として手に刻ませる。

結局のところ、必要なのは「関わること」だ。
ケースごとに全身で向き合い、
練習の習慣を絶やさないこと。

ローマ語には、この本質を完璧に表現する言葉がある。

魂を込める(a pune suflet)”

つまり、本物の湧命法セラピストは──
手を動かす前に、魂を置くのである。

私たちは、湧命法と出会った数々の瞬間により豊かになった。
それは療法であり、態度であり、感覚であり、選択であり、
行動であり、希望であり、学びであり、
そして“人のために生きる”という事実そのものだった。

ここで述べたことは、信念や説教や新たな理論体系ではない。
むしろこれは、体験から逃れようのない結論であり──

ひとりの日本人の魂に生まれたものは、
ひとりのルーマニア人の魂にも、
同じように灯火をともすのだ。

ささやかな感謝をこめて
私たちの友──ソリン・イガへ

2013年6月
シモナ・クレツ
ルチアン・ダニラ