なぜ私は湧命法(ゆめいほう)を愛するのか
モットー:
「より良い“正しさ”(再調整)を望む人間として、私は同胞たちから離れようとした。
できなかった。
だが彼らは、最後まで、ただ純粋に私を愛してくれた……。
“最後”という目的地など、そもそも存在しない。」
私たちが感じるすべての中に、同じ繰り返しなど存在しない。
肉体は通り過ぎていき、止める方法はない。
しかし時間とは、神からの贈り物である。
だから時に、理由も分からないまま、私たちは説明のつかない“特権”を与えられる──
それは「歩みをゆるめる」という恵み。
通り過ぎていくということは、神からの“正しさへの導き”であり、私たちが「選びうる存在のすべて」であることを告げている。
湧命法の療法は、私にすべてを与えてくれた。
これは決して誇張ではない。
湧命法は、私を完全なる“無知”へと連れ戻した──
すべてを抱擁する「完全性」へと向かう無知へ。
そして今の私が持ちうる、限りなく不十分な謙虚さで言える唯一の論拠は、これしかない。
論理的でもあり、人間的でもあり、神的でもあり、そして限りなくシンプルな答え。
湧命法は、決して終わらない。
だが、毎回必ず“始まろうとする”。
神は湧命法を授けてくださった。
こんなふうに──
まさにこんなふうに、神は働く。
なぜか?
恋しさのため、贈り物のため、慈しみのため、あの方のため、神そのもののため……
人間的な愛惜をこめて、私たちはどれほど推測しようと、それはあの「一瞬」に届く前に必ず終わってしまう。
その一瞬──
祈りによって、絶えない微笑みと、魂の温もりとともに、私たち一人ひとりの“いま”の命を運んでくる、あの跪きの意味を理解した瞬間に。
私は湧命法を愛している。
それが跪いて行われる療法だから。
それが額を地へと向け、私たちが来た場所、そして戻っていく場所──祈りそのもの──へ向かう行為だから。
私は湧命法を愛している。
なぜなら、誰一人として“私たちを生かすもの”を完全には理解できなくとも、湧命法は、容赦なく、理由もなく、私たちを「感じること」そのものへ投げ込むから。
私は湧命法を愛している。
それは、私の無力さを突きつけるが、それでもなお巨大な希望へと向かわせるから。
私は湧命法を愛している。
それは、重力の法則に従わないから。
私は湧命法を愛している。
なぜなら、その歩みを加速させてくれた人たち──私と過ごしたあらゆる瞬間で人生を変えてくれた人たち──がいるから。
私は湧命法を愛している。
それは、繰り返し、圧し、謙り、揺れ動き、息づき、途切れず、澄み渡る──
そんな働きによって、私を“自由を運ぶ音符たちの自分自身の譜面”へと作り直してくれるから。
私は湧命法を愛している。
それは、“誰か”をより多く愛するのではなく、ただもっと深く、祈りの続く限り“愛することそのもの”を愛するように思い出させてくれるから。
私は湧命法を愛している。
それは、誕生を持たずに存在し、しかし確かな再生を与えてくれるから。
私は湧命法を愛している。
それは「存在」そのものになる前に、すでに私たちに似た人々の“より良い未来のための希望”として生まれていたから。
そして私は湧命法を愛している。
なぜなら、この療法について書きたいこと、したいこと、感じたいこと、
そして人生について、そして永遠に神へ向かう道について──
語るべきものがまだあまりにも多いから。
ルチアン
2012年10月30日