身体のための療法、魂のための師

始まりの告白
October 24, 2016

身体のための療法、魂のための師

「誕生から死に至るまで、私たちのあらゆる体験──大きなものも小さなものも──は、食べること、働くこと、遊ぶこと、愛し合うことに至るまで、すべて身体によって可能になる」
ケン・ウィルバ

「文化的にも種としても、私たちが最も大切にしている価値の一つは〈身体の健康〉である。しかし、あまりにも多くの場合、私たちは自らの健康を育むことに失敗している」
ケン・ウィルバ

言葉によって知ることは、人間に与えられた特権である。だが、どれほど豊かな経験を言葉が描き出そうとも、その経験は、言葉をいったん脇に置き、〈生きた体験〉そのものの懐に飛び込まなければ、本当の意味では味わえない。癒やす手は、インスピレーションを与える言葉の直接の延長である。

多くの人が辿ってきた道筋も、まさにこの通りだ。湧命法(ゆめいほう)への〈単なる好奇心〉から始まり、やがてこの療法の熱心な実践者へと自然に移行する。その過程には、言葉が携えてくる「癒やしの約束」と、それを実際の身体を通して確かめ直す営みがある。身体は、魂が宿るべき大聖堂であることを思い出すために、私たちは再び身体へと立ち返る必要がある。

近年、再評価されつつある永続哲学が説くように、人間は部分ではなく〈全体〉である。湧命法の価値は、この全体性の視点に根ざしていることにある。他の東洋の伝統療法──たとえばレイキなど──ほど強調されていないにせよ、湧命法にも《ホリスティックな健康観》が確かに存在し、それが症状を根から捉える強みを与えている。身体表層の不調の多くは、より深層にある原因から生じている。

湧命法がもたらすものは、身体の《垂直性》の回復であり、そこから人間の尊厳という感覚を立て直すことである。だが、言葉はその核心を指し示すことしかできない。私たちの多くは、湧命法に初めて触れたとき、それを「また新たなエキゾチックな療法」と受け取ったかもしれない。しかしその印象は驚くほど早く変容した。奇妙で複雑に見えた地平は、こちらを拒むどころか、静かに手を伸ばしてくる。抱きしめ、誘い、奥行きや精妙さを見せてくれる。衝突は、やがて抱擁となり、微笑みとなり、温かな共鳴となる。

そしてこの変容の功績は、言うまでもなく〈伝える人〉にある。顔立ちを超えて、使者は《顔》そのものとなり、言葉を超えて《声》となり、語りを超えて《物語》そのものとなる。だが何よりも、使者は〈師〉である。師と呼ぶのは、湧命法へ導く前に、まず私自身へと向き合わせてくれるからだ。私は、より真っ直ぐで、より対称的で、病という共存者から浄化された〈私自身〉を、師の物語の中に見る。そこに見える私は、すでにそこに“いる”。いまの私との距離は、選ぶことで消えるほどわずかだ。

師は、湧命法を《私自身の物語》へと変えてくれる。私を再び身体へと向かわせ、内側に目を向けたとき、魂が本来あるべき大聖堂ではなく、仮の足場の上にかろうじて佇んでいることを見せてくれる。師は湧命法について語りながら、実は私自身について語っている。こうして、私と師は透明になり、湧命法という本質へと溶けていく。湧命法はもはや異国の地平ではなく、ひとつの《パラダイム》となる。湧命法と師は一体となり、それぞれ当然の役割を果たす──湧命法は「身体」の療法であり、師は「魂」の導き手である。そして、湧命法の世界との次の出会いを待つときの胸の高鳴りは、実のところ、〈新しい自分との逢瀬〉を待つ高鳴りである。

Simona Crețu

注記

[1] 「誕生から死まで、私たちのすべての経験は身体によって可能になる」
(意訳・私訳)

[2] 「文化的・生物学的に、私たちが最も大切に抱く価値の一つは〈身体の健康〉である。それでもしばしば、私たちは自分の健康を育むことに失敗する」
(意訳・私訳)