始まりの告白

身体のための療法、魂のための師
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希望を生み出す言葉
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始まりの告白

私たちは言葉にすがる。
言葉で微笑み、言葉で希望を抱き、言葉で抱擁する。
しかし、多くの場合、私たちの言葉には行為が伴わない。24

本当のところ、私たち一人ひとりの「行為」とは、魂の確信を証し立てる触れ合いであり、その確信はどこにでも存在し、そして何より、どこでもない場所を越えて私たちを生かし続ける。
言葉は複雑だが、行為はシンプルである。
言葉の洪水の中にありながら、その行為がもたらす結果は圧倒的で、私たち自身や周囲の人々の痛みや喜びを深く抱きしめる。

ガラツィでは、湧命法(ゆめいほう)を学びに集まった人々に大きな喜びがあった。
その喜びがあまりにも大きく、まるで別世界に足を踏み入れたようだと語った人もいた。

ここで、技術的・実務的な報告をするつもりはない。
確かに情報量は圧倒的だったが、いま語りたいのはそこではない。
湧命法の学びは、まず技術の習得と正確な実践が中心を占める。
だが、私の不器用さで、この言葉の領域を濁らせたくはない。
むしろ、私はどうしても湧命法の「精神」に近づく道を、まず言葉の中に探してみたい。

ガラツィでの九日間は特別だった。
あまりに特別で、言葉を捨てて笑いに没頭し、時に涙が出るほど笑う人もいた。
笑顔は、しばしば穏やかさへの前奏であり、自然さの表れでもある。
自然さ──それは私たちにとって時に重荷のように思えるが、実は手の中に宿り、手が自然を形づくり、自然が微笑みを伴って広がっていく。
湧命法という手技療法とは、まさにそのような営みである。

いや、それだけではない。
理解や体験の限界を越えるものは、決して静止しない。
私たちは常に揺れ動く幕の前に立ち、その動きがあまりに激しいため、舞台そのものが動いているように感じる。
現在(いま)に指先で触れれば、現在は「存在」へと変わる。
そして、その存在を味わう方法は一つ──額を深く垂れ、垂れた額が祈りへと変わり、その祈りが絶えず続くことを許すことだ。

私は湧命法とは何かを知らない。
そして、その「知らなさ」は、あの九日間が過ぎるごとにむしろ強くなった。
けれど同時に、別の“成長”が胸の中で鼓動していた。
あまりに強く鼓動するので、それが私に「霊性」を教えようとしているのではないかと感じた。
どこか懐かしく、それでいて長い間忘れていた祈りの感覚。

私は湧命法を知らない。
愛を知らないのと同じくらいに。
その言葉をどう発音するかは知っている。
それが私の中で何を呼び起こすかも説明できる──
しかし、それは天へと向かうような感覚であり、そこでは私は確かに「私」でありながら、同時に祈りを必要とする「私」でもある。
祈りが息を満たし、涙がキリストの心へと届けられるような「私」である。

心が湧命法のリズムで鼓動するとき、それは「自然さ」が私たちの中に戻ってくる感覚だ。
自然さとは、無条件の与える心であり、与えられるものを謙虚に受け取る心だ。
呼吸が湧命法に満たされるとき、私は人々を限りなく開かれた心で迎える。
視線が湧命法によって輝くとき、私の内と周囲には、商業主義、打算、嘘、偽善、絶望への、明確で決定的な反逆が生まれる。

私はまだ学んでいる最中だ。
希望とは心が持つ最も純粋な確信であるということを。
しかしいま、湧命法の学びの中でわかるのは──
人は希望の中に生まれ、希望の中に永遠を生きるということだ。

湧命法を通じて「与える」ことを学ぶ旅がどのように続くのか、私は知らない。
そして、その学びがどのように終わるのかも知らない。
だが一つ確かなことがある。
それは、この学びは終わらないということ。
終わらず、満ちていくということ。
満ちていくものとは、真の選択と忍耐によって育まれる霊性の証である。

私たちは絶え間ない前奏を生きている。
示し合わせたような対話を重ね、変容の直前で震える夢の中を歩いている。
雪が溶けて自由になる瞬間を夢見るように、雨が落ちる前に空で遊ぶように。
湧命法がこれほど深く私の中に根づいてから、私は感情、仕草、視線、響きの奔流の中を生きている。
すべてが「始まり」を予感させ、すでに始まりである。

いま、言葉の囚人であり、意味の迷い人であり、比喩の旅人である私にとって──
湧命法は、最初の、そして最も本物の巡礼である。