ゆめいほ道で迷ってしまう実践者たちはどこで道を外すのか
最近、こう言う声をよく耳にします。
「講習は終わったし、技術も身につけた。先生にも“手がいい”と言われた。資料も動画もあるから、もう研修に行く必要はないでしょう。」
その度に、私は少し悲しい気持ちで微笑むのです。
なぜなら、「もう十分わかった」と思った瞬間から、人の成長は止まってしまうことを知っているからです。
自己満足や思い上がりは、成長を妨げ、やがて後退へとつながります。
多くのゆめいほ実践者は、ある段階まで学んだあと、研修会や勉強会にほとんど戻ってきません。
忙しさ、距離、費用、家庭、仕事――理由としてはもっともらしく聞こえます。
しかし、その裏には「自分はもう十分わかっている」という、より深く危険な思い込みが潜んでいることが少なくありません。
これはセラピストとして最も陥りやすい落とし穴です。
「十分に知っている」と思った瞬間、人は学ぶことをやめてしまうのです。
人体は決して固定された公式ではありません。
常に変化し続ける、生きた複雑なシステムです。
だからこそ、観察し、感じ取り、比較し、動きを磨き続けなければなりません。
人はそれぞれ違い、反応も千差万別です。
そのため、施術者は常に開かれた姿勢で、細やかさを養い、技術を深め続ける必要があります。
ゆめいほは単なる型通りの技術ではありません。
それは 「道」 です。
歩む過程そのものが学びであり、施術者一人ひとりが、自分の経験や感性を通して深めていくものです。
この「道」では、細部が成果を大きく左右します。
手の位置、圧の方向と強さ、リズム、施術者と受け手の呼吸、心の在り方――。
これらは本だけでは身につかず、また時間とともに薄れていくものです。
だからこそ、繰り返し体験し、修正し、正しい指導のもとで磨き続ける必要があります。
熟練した指導者は、あなたの見落としに気づき、姿勢を整え、圧を微調整し、より効果的な方法を示してくれます。
たった一つの指摘が、技の質を劇的に変えることもあるのです。
私自身、長年毎日施術していても、研修やセミナー、勉強会に参加し続けています。
知らないからではありません。
「まだまだ学ぶことがある」と心から理解しているからです。
毎回、新たな気づきや視点が必ずあります。
たとえ短いデモンストレーションでも、技の理解が深まる瞬間に出会えます。
ゆめいほの魅力は、まさに「終わりがない」ことにあります。
「完全に理解した」という地点は存在しません。
学び続けることでのみ、本質へ一歩ずつ近づいていくのです。
日本のゆめいほ師範たちは、同じ技を何年も繰り返し稽古します。
完璧だからではなく、「さらに磨ける」と知っているからです。
謙虚さと継続こそが、本物の専門家の証なのです。
研修会は決して「資格集め」のためのものではありません。
技術の衛生、心の姿勢を整えるための場所です。
施術者としての身体を整えるように、知識と感性も整え続けなければなりません。
学びを止めた瞬間、技は形骸化し、劣化し、やがて誤りにつながります。
ゆめいほは固定された技術ではなく、成長し続ける「道」です。
研修に参加し続けることは、施術を受けてくださる方々への尊敬の表れでもあります。
もしあなたが「ゆめいほの道で人はどこで迷うのか?」と問うなら、答えははっきりしています。
「学ぶことをやめた地点」で、人は迷い始めるのです。
近道を選び、指導を避け、慣れに身を任せてしまう――。
それは道から外れる始まりです。
ゆめいほの道は、立ち止まる人のためのものではありません。
前に進む人、好奇心を失わない人、繰り返しをいとわない人のための道です。
技が生きていること、自分自身も変化していること、そして毎回の施術が新たな学びであることを受け入れられる人のための道です。
達人とは、才能に恵まれた人のことではありません。
歩みを止めない人のことです。
戻ってくる人、初心を忘れない人、そして「まだ学ぶことがある」と素直に認められる人のことです。
ゆめいほは、あなたを置いていくことはありません。
しかし、あなた自身がゆめいほから離れてしまうことはあります。
最大の損失は、「研修に来ないこと」ではありません。
学びを止めてしまうことなのです。