なぜ私は湧命法(ゆめいほう)を愛するのか 2

なぜ私は湧命法(ゆめいほう)を愛するのか
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なぜ私は湧命法(ゆめいほう)を愛するのか 2

(ある哲学する実践者の散らばった告白)**

聴くこと、学ぶこと、練習すること、助けること──
これらの動詞は、私たちの手、足、額のさまざまな姿を定義している。
汗にまみれ、日々の自然で必要で尊い行い、すなわち「働くこと」の中で現れる姿を。

人生には特別な瞬間がある。
私たちが恋に落ちる瞬間だ。
雲や星に、花や蝶に、猫に、そして庭の桜桃のてっぺんに止まる小さなスズメに。
言葉では表せない山の景色に、真夜中の太平洋のどこかで叫ぶ匿名の波に、人の行いに、あるいは人そのものに。
そして、生きるうちに次々と過ぎていく美しい瞬間にしがみつくのではなく、「美そのもの」へと錨を下ろすように導いてくれる何かに。

私たちが深い存在としての「いま」を生きるとき、恋に落ちるという行為は、人生でも数少ない“労働ではない行為”だ。
時間が「過去・現在・未来」という三つの相に存在するのではなく、ただ静かに流れる匿名の一つの相──すなわち現在──にのみ存在するようなものだ。
釣り上げる現在ではなく、馴染み、そこに住まう現在。

私は湧命法を見つけるために努力したわけではない。
湧命法が私を呼び、そして運んでくれたのだ。
それを5年前に再発見し、今ならある種の結論を(暫定的ではあるが)描くことができる。

こうだ。

人の自由を定義しうる「錨の形をしたフック」が存在する。
それは、人が「居場所」と「使命」を同時に見出したところに静かに落ち着く。
そしてその二つの座標はやがて一つになり、それは自由そのものではなく、「自由という意識を、肉体をもった自己へと運び入れる労働(トラバリウム)」となる。

湧命法を学ぶという、時間に縛られない行為の中で、
「明晰さ」は時に極限まで高まり、ある状況では逆説的に「包摂性」と対峙する。
神的な“すべてを包む包容”ではなく、人が神と、仲間と──男性/女性を含む「人」──そして自身と正直に対話するときに生まれる、
別の意味での“霊的で謙虚な包容”に。

創造主が人に与えた最大の恩寵は「助けること」だ。
これは存在論的に言えば、
「他者と共に/他者を通して/他者から生きること」
と訳すことができる。

他者とは時に、ありえないほど不思議なタイミングで現れ、
姉となり、兄となり、友となり、恋人となり、
階段を掃除してくれるおばさんとなり、
高校で量子数を教えてくれた物理の先生となり、
三年間ノルウェーの造船所で凍える寒さに耐え働いた友となり、
横断歩道で不安げに手を求めるおばあさんとなり、
頼んだだけでタイル貼りを手伝いに来てくれる隣人となる。

なぜ私は湧命法を愛するのか?

傲慢が破壊するところを、謙虚さで築くからだ。
疑いが生まれる場所に、湧命法は“責任ある優しさ”を据えるからだ。
厳密でありながら、自由に輝く精神を宿しているからだ。
どこにも視線を固定せず、中心がどこにでもあるかのような光。
準備なき心の埃を払い、光の源につながる心を呼び覚ますからだ。

重心は、健康の中心である。

そして私たちの何人かは、
何百時間(ある者は何千時間)もの学びの中で「愛すること」を学んだ。
それは湧命法の学びであり、同時に、自分の周りの人を助けることに直結していた。

そして湧命法のなかで、人間らしく静かに、しかし力強く、
セラピストと患者、セラピスト同士、師と弟子のあいだに、
“一生もの”の友情が解き放たれた。
私たちは皆、友であるか──あるいは、友を築いている。

なぜ私はさらに湧命法を愛するのか?

自分の限界を超えられることを知ったからだ。
そして、自分の隣にいる人の限界も超えさせる手助けができると知ったからだ。

三年の実践と二年の葛藤を経て、
私は湧命法へ戻ってきた。
言葉では決して言い尽くせない喜びとともに。

なぜなら、人が助け、神が癒すからだ。

心から地に向けられた額は、
後頭骨に静かに触れる“もう一つの空”を象徴するからだ。

そして何より──
私たちは人を愛する自由を持っている。
すべての人を、自分自身を愛するように。
あなたを、
私を。

この時間に縛られない“季節”こそ、
湧命法を本物として生きる人々が呼吸し、
水を飲み、食べ、感じる場所だ。

そして、その先へ──
それは連帯の足場の上に、
微笑みの上に、
忍耐の上に、
そして私たちの最も触れられる部分──魂──の上に築かれていく。

ルチアン